標高410メートルの馬蹄型をした四王寺山の、山頂の尾根線に沿ってぐるりと防塁を張り巡らせた朝鮮式の山城の跡です。防塁の長さは6.5キロメートル、2重になった部分を合わせると約8.2キロメートル、70棟近くの倉庫を持ち数万人規模での篭城が可能なものでした。日本最古の山城であり尚且つ規模としては日本最大です。
なぜこのように巨大な城が作られたのでしょうか。城が作られるその5年ほど前の660年朝鮮半島の日本の同盟国であった百済が新羅に滅ぼされました。百済残党は復興のため日本に援軍を要請し、日本はこれに応じます。日本・百済の連合軍は第1陣約1万余、第2陣2万7千、第3陣1万余と合計5万に近い大軍を朝鮮半島に送ります。ですが百済南部を一時期は取り戻したものの、663年に白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗北。これで日本は百済の復興どこらか逆に朝鮮半島からの来襲に備えなければならなくなりました。そこで665年、百済の亡命貴族、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しいふくぶ)によって防衛のために築かれたのです。ここまで巨大でなおかつ篭城戦を視野に入れているのは、百済滅亡の苦い経験からきているといわれています。
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